先日、Interspeechに参加した。口頭発表を聞き、参加していたPhD学生と議論する中で、完成度の高い研究を持ち込み、関連する研究をしている人と積極的につながっていこうとする強さを感じた。正直に言えば悔しかった。その悔しさの多くは、議論の中で相手の言っていることがわからなかったことから来ていて、帰ってから勉強しようと自分を動かすものでもあった。「強いPI」のもとでインパクトのある研究をしようとする人たちの姿勢には、学ぶべきものが多いと思う。そのうえで、研究の対象をどう選ぶかは、まだ決めきれていない。トップ会議に論文を通すことを軽く見るつもりはない。
Interspeechで感じたこと
会場でまず感じたのは、完成度の高さである。口頭発表では、実験を積み上げ、比較を揃えた強い結果を持ってくるものが多かったように思う。特に面白く、うまいと感じたのは、言語学の側から音声を研究している人たちの発表だった。心理的な側面を細かく実験で詰め、その結果を発表者が主体的に議論していた。研究の進め方が理論に近く、完成度が高く見えたのは、研究が理論に支えられていたからでもあるのだろう。一度参加しただけの印象なので、分野全体について言えることではない。
もう一つ感じたのは、目線の高さである。自分はこれまで、まず国内の研究会で発表して反応を得て、それを国際会議に出す、という順序を漠然と想定していた。しかし議論したPhD学生たちは、トレンドの研究であれば、最初からフラッグシップの国際会議に出すのが当然という感覚でいるように見えた。日本で言えば国内発表にあたる位置に、少なくともフラッグシップの国際会議があり、その先に評価の高いジャーナルを見ている。分野の事情もあるのかもしれないが、自分が感じたのは、単純に意識が高いということだった。
「強いPI」のもとで研究するということ
自分は内向的で、初対面の研究者に次々と話しかけていくのは得意ではない。会場では、関連研究をしている人とどんどんつながっていく人たちを見ながら、自分もああするべきなのだろうかと考えた。Metaのような大きな企業のインターンを貪欲に狙う話や、AI研究者に桁違いの報酬が提示されているという話も耳に入る。
こうした動きは、突き詰めれば、海外に出てインパクトのある研究を「強いPI」のもとでやり、そこでもまれて成長しようということだと思う。確かに強い。論文の数も、採択される会議も、使える資源も、自分のまわりとは比べものにならないのかもしれない。ただ、その強さが本当に研究の強さなのかは、よくわからない。規模や資源やトレンドに乗る速さから来る強さと、問題の選び方や詰め方の強さは、外から見ると区別がつきにくい。「強いPI」のもとに行けば第一線の問題の選び方を学べる、とよく言われるが、そこで学べるのがどちらの強さなのかは、行ってみないとわからないのだと思う。キャリアを考えればそうした機会を狙うべきだし、ハングリーであれという助言にも一理ある。それでもその悔しさに乗り切れていないのは、この疑いが残っているからである。
わからないことへの悔しさ
一方で、議論の中で相手の言っていることがわからなかったときの悔しさは、素直に自分を動かす。わからないのが悔しいので、帰ってから論文を読み、勉強してやろうと思う。こちらの悔しさは、わかるようになりたいという気持ちに近い。
研究の対象を選ぶときに気をつけたいのは、この悔しさとは別の基準が入り込むことである。採択されやすいもの、比較で勝てるもの、流行しているものを基準に対象を選ぶようになると、研究は速くなるかもしれないが、自分がわかりたいものからは離れていく。規模そのものを研究の対象にすることは、その典型だと思う。規模を大きくすれば性能は上がり、比較には勝ちやすくなる。しかし、それによって自分が何を理解したのかは残りにくい。稲見昌彦先生も、焦って一発逆転を狙うと、選んだ手がかえって「驚くほどテンプレート通り」になってしまうと書いている[2]。ただ、任期や採択数に追われている立場で慌てずにいることは、個人の心構えだけでは難しい。これは制度の側の問題でもある。
おわりに
ここまで書いてきたことは、哲学者のアラスデア・マッキンタイアが論じていることに近いと思う[1]。マッキンタイアは、チェスや絵画や科学の探究のような営みを「実践」と呼び、その実践の内側でしか得られない善と、名声や地位や金のように、実践に偶然結びついているだけの外的な善を区別している。外的な善は、誰かが多く得れば他の人の取り分が減るので、勝者と敗者を生む競争の対象になる。内的な善も卓越を目指す競争の中で生まれるが、誰かの達成はその実践に参加している人全体を豊かにする。マッキンタイアはまた、実践に入るとは、その時点で最もよい基準の権威を受け入れ、先人の達成から学ぶことだとも書いている。「強いPI」のもとで研究することにこの意味での学びがあるかどうかは、その強さが外的な善を集める強さなのか、実践の内側での卓越なのかによるのだと思う。そのうえで、外的な善も本当に善であり、実践は大学や研究所のような制度に支えられなければ続かないとも述べている。トップ会議に論文を通すことを、不純なものとして退けることはできない。
会場で感じた強さと、わからないことへの悔しさはつながっていた。議論についていけずに悔しかったのは、目線の高いPhD学生たちと話したからである。強い人たちと話すことで、自分がわかりたいものは増えていく。内向的な自分でも、わからなかったことを勉強し、それを次の議論に持っていくことならできる。「強いPI」のもとでインパクトのある問いに取り組む道と、議論の中で見つけた自分のわからなさから問いを立てる道のどちらを選ぶかは、まだ決めきれていない。どちらを選ぶにしても、トップ会議やジャーナルには論文を通したい。
参考文献
- MacIntyre, A. After Virtue: A Study in Moral Theory. 3rd ed. University of Notre Dame Press, 2007, Chapter 14.(邦訳:『美徳なき時代』篠﨑榮訳, みすず書房, 1993)
- 稲見昌彦(@drinami)X(旧Twitter)での連投, 2019年4月23日.